さ/み

 聞くところによると、言語学のわりと有名な日本語のトピックに、「『さ』と『み』の関係」があるそうである。たとえば、「あたたかさ」と「あたたかみ」の最後の「さ」と「み」である。どういうときに「さ」や「み」が付くのかという論文が少し検索すれば多数見つかる。
 そんなトピックがあることを忘れていた数年前に、ネットで「つらみ」という語を見かけた。私の感覚では「つらさ」という語はあっても、「つらみ」は成立しないと思っていたのであるが、それを見かけて以来、それまで「み」が成立しなかった様々な語に「み」が付きはじめた。最も面白いと思ったのは「わかりみ」という語だった。よくわかる、共感できる、といった意味で使われているようだった。若者言葉、あるいはネット用語として、「み」は次々と広まっていった。
 言葉はどんどん変化していくものであり、それは善でも悪でもないが、私自身は昔ながらの感覚でいたいと思っていた。
 ところが、先日テレビを見ていたとき、「悲しみ」という語を見て、なぜか私はそれがさも若者言葉であるかのように錯覚しまった。昔からある言葉であるにもかかわらずである。どうやら私の感覚もかなり変化しているようである。