いまさらながらに、駒.zoneの詰将棋のエッセイを読む。

すごかった。

面白かった。

快作だった。

や、私はほとんど詰将棋が解けないので、あまり見ることはなかったんですよ。数カ月前に、「最後の審判」を見て感動した覚えはあるんですけれど、それとか、長手数のを見てすごいなあと思ったりはしていたんですけど、これほど深いものだったとは。

ひたむきに芸術作品を作っている人たちがいるんだなあと思うと、勇気づけられます。

(面倒になってきたので、題名は省略)

あんまり慣れない言語で、コンパイルに苦戦していたが、通った。

コンパイル、通ったよ!

高倉健さんがパソコンのCMで「簡単じゃねえか」だか「できるじゃねえか」みたいな科白を言っていた記憶があるのですが、あんな感じ。

コンパイル、通るじゃねえか。

同じアルゴリズムを書いたり消したりしている

同じアルゴリズムを書いたり消したりしている。

ループである。

ここは、難しいんである。

明日もきっと進まないんだろうなあ。

今日書いて消したコードが明日も同じコード、というクイズダービー的な何かである。

せーのどん!

すぎかきすらの、はっぱふみふみ!

で、まあ、論文を読みまくっています

で、まあ、論文を読みまくっています。

あらためて、「認識」ってなんなんでしょうね。突き詰めてはいけない気もするし、突き詰めねばならない気もする。

とりあえず、音声の認識に話を限ります。

声が耳に入ってきて、その意味が分かるとき、脳みそは一体何をしているのか。

まあ、日本語母語話者が日本語を聞くときには無意識に聞いているだけですよね。特別難しいことをしているという意識はない。もしかしたら、脳みそはものすごく難しいことをしているのかもしれないけど。

じゃあ、英語を聞くときにはどうしているかというと、英語が苦手な私としては、めちゃくちゃ難しいことをしている気分になる。